誰かの為のブログ

映画や本の感想をだらりだらりとマイペースに書いていきます。

【感想】自分で決めろ、愛も運命も何もかも。 岸見一郎 古賀史健「幸せになる勇気」

前作から3年、青年は再び哲人の書斎を訪れます。それは友人としてではなくアドラーを捨てるために。哲人と青年の長い夜が始まりました。

 

 

今作は前作「嫌われる勇気」の続編になり岸見氏、古賀氏による「勇気の二部作」の最終章にあたります。作品の中で青年が教師という職についたことから教育とその目的についての議論が全編を通じで根底に流れています。そしてそれらを土台に自立、愛、そして幸福へ至る道へと議論は続いていきます。

 

アドラーは教育の目的を「自立」と主張します。ここで言う自立とは自分の人生を自分で選ぶということで、自立できていない人たちは他人からの指示を仰がなければ自分の能力を活かすこともできません。なぜ他人の指示に頼ってしまうのか。それはそのほうが「楽」だからです。自分で決意することなく、他人に選んでもらう。万が一に失敗したとしても自分の責任は軽くなります。それを選ばせた誰かに責任を転嫁できるから。こうした「自立」できていない状態を「未成年の状態」と呼びます。

一方で大人たちは子供を「未成年の状態」に留めておこうとします。あれこれ指示することで表面上は子供たちが失敗しないように、痛い目を見ないで済むようにという建前がありますが、本当の目的は別のところにあります。彼らの本当の目的は「保身」です。結局のところ大人たちは子供たちの失敗による自身への責任を免れようとしているだけなのです。そのため子供たちをコントロールしやすいよう「未成年の状態」留めておこうとします。

だからこそアドラーは教育の目的を自分の人生を自分で決める「自立」と主張しているのです。

 

同時に自立とは自己中心性からの脱却であるともいえます。人はかつて赤ん坊であった頃その弱さゆえに世界の中心に君臨します。自分のことを何一つ自分で行うことのできない赤ん坊は身体的な弱さを理由に大人たちを支配せざるを得ません。そうでないと生存が危ぶまれるから。しかし身体の成長に伴ってできることが増えてくると、いつまでも世界の中心に居座ることはできなくなります。

一方で大人の中にも過去のトラウマを武器に周囲を支配しようとする人もいます。彼らは「可哀想な自分」や「悪いあの人」を引き合いに出し、周囲から注目を得ようとします。それは安直な手段で特別であろうとする劣等コンプレックスそのもので、これによって周囲の支配を目論むわけです。こうした行動に出る人たちもまた未成年の状態といけるわけですね。

 

ちょっと長くなりましたので、続きはまた今度